tezomeya的モノづくり論 ~導入編

『文化を伝えたい』
『伝統を守っていきたい』

私はこのフレーズが苦手だ。
正確に言うと、このフレーズが重要なキーワードの一つとして使われている論文やテキストが苦手だ。

自分の仕事に大きく関わるということもあり、工芸やクラフト的なプロダクトに関連するコンテンツをよく読んだりするのだが、そういったプロダクトを広く認知させるための書き手の熱い想いの中に、時々このフレーズを目にする。
でも、このフレーズが主題になっているからと言って、別にその論文やテキストの主論が私の考え方と全く正反対になっているかと言うと、そうではないことも多い。いや、どちらかと言えば、そのテキストの書き手が大切にしていること、守りたいこと、広めたいこと、そしてそういったテキストを書く原動力になっていることは僭越ながら私の想いと同じであることのほうが多い。

だが、先述の言葉に加えて、『文化を残す』、『伝統を今につなげる』といったようなフレーズが多用されるテキストや論文の中身に関しては、腑に落ちないことが多い。
あくまで個人的な感覚なのだが、どうも  ”ぬるい”  感じがするのだ。

 

先日、facebookを通して或るテキストを読む機会を得た。
地域のものづくりを盛り上げていらっしゃる福岡のショップ、うなぎの寝床 さんのオーナーが書かれたテキストだ。
そのテキストは、地域でコツコツと作られている大切なプロダクトを経済に乗せていくためにオーナーさんが普段から考えておられる、工芸的クラフト的プロダクトに対する想いだ。

うなぎの寝床さん、お伺いしたことはないが有名なところだしお名前は勝手に存じている。アンテナショップ的な実店舗、テーマを持って丁寧に商品紹介をされているオンラインストア、そして福岡を離れての展示販売など、とても精力的に活動されていて本当に素晴らしいと思う。

ただ、あくまで個人的にだがこのテキストには違和感を覚えた。
本当に失礼なのだが、先ほど言ったような、ある種の “ぬるさ” を感じてしまった。
そして、テキストの中にはやはり、”文化の発信”、”文化を伝える”、といった言葉が書かれていた。

で、良い機会なので、素晴らしいことを述べておられるこのようなテキストになぜ私が違和感を覚えてしまうのか、そのあたりを自分の整理のために、したためてみようと思う。
おそらく、言葉の整理から始まって、tezomeyaが考える天然染料を使ったモノづくりのに対する基本姿勢などをお伝えすることになるだろう。・・・

 

・・・なんて、大上段に振りかざしちゃいましたけど、たまにこのブログでやっていることでして、今回も店主のとっ散らかった思考断片の棚卸です。お暇とお時間がおありの方、もしよろしければお付き合い頂けましたら幸いです。

 

1.”文化” という言葉について

ということで今回は、ちょっと気合い入れてちゃんと書きます。文章を単元分けして書きすすめようと思います。
そのためにはまず、議論の中心になる重要なキーワードがどのような意味で使われているのかの確認をしないといけません。ヴィトゲンシュタインの論理哲学論考をはじめ、精度の高い議論をする文章は全てまず言葉の定義の確認からスタートしてますから、ええ。
まぁ言ってみれば、重箱の隅をつつく話をするには、重箱の大きさと隅の場所や数、つつくお箸の形や長さの共有をしておかないといけないですよね、ってことです。

で、まずは、これ。“文化” とはなにか、です。
広辞苑で調べると、いくつも出てきます。3つくらい。

①文徳で民を教化すること
②世の中が開けて生活が便利になること
③人間が自然に手を加えて形成してきた物心両面の成果。衣食住を初め技術・学問・芸術・道徳・宗教・政治など生活形成の様式と内容を含む

今回の話題で取り上げるべきはおそらく3つ目の意味ではないかと思います。ただ、広辞苑の説明ではとても包括領域が大きいですよね。これだとだいぶ意味が広過ぎて焦点合い難いなと思います。
なので、ここは、勝手ながら私がいつもモノづくりの話をする中で ”文化” という言葉を使うときに個人的に定義している意味合いをお伝えします。

文化とは、或る特定の地域で特定の時間の間に評価された複数の有形無形価値の総体である

です。
言ってみれば、限定された時空間内で流行ったいろんな事柄、です。

これ、同じような言葉ありますよね。”流行” です。
個人的には、流行と文化って物理や化学でいえば同じ次元の単位で、その違いは時空間のスカラー値の閾値の違いでしかない、と思っています。
本当は全部文化と言う言葉で表現してもいいような事柄を、持続時間が短い時に流行という言葉が首をもたげてるんじゃないかな、という感じです。

でも、なんか、流行と文化のニュアンスの違いって、それだけじゃないですよね。
文化の方がなんか賢そうで偉そうでちゃんとしてそうで、流行って軽薄で短小で軽んじられていて取るに足らない、というニュアンス、ありませんか?
言葉としてどちらも正式な言葉ですし(スラングではないという意味)、ちゃんとした議論でも、例えば芸術論やマーケッティング論などの学術的論議の際にも文化だけでなく流行と言う単語も普通に使われていますよね。

持続時間が短いので短小というニュアンスが付随するのはしょうがないとして、それ以外のイメージの差が生まれるのはなぜなんだろう・・。

で、個人的に勝手に思っているとりあえずの理解は

文化:時間に沿っても変化しないと仮定した価値観の総体を述べる際に使う
流行:時間に沿って変化すると仮定した価値観の総体を述べる際に使う

ということなのかな、と。
この差は、おそらくもともと文化と流行の違いが時間的閾値の長さからくるからなのかなと勝手に想像しています。

そして両者の使い方の差から、おそらく・・

文化は・・
変化しない→安定→大切

一方、流行は・・
変化する→不安定→取るに足らない

ってことなんじゃないかな、と。
すなわち、変化しないことを良しとする価値観の総体について語りたいときに、その価値観の総体を”文化”と表すことできらきら感が増す、ということを狙って文化と言う単語が使われやすいのではないか、と考えています。
そして更にですが、その語りの中で変化しやすい価値観の総体は相対的によろしくない事なので、それを”流行”と述べることで、 変化しない⇔変化しやすい だけではなく、もっときらきら感のコントラストを付けることができる、という効果を期待しての記述的テクニックとして、文化と流行を対比して使われたりするんじゃないかなどと邪推しています。

面白いことに、ファッションに関するテキストを読んでると、”文化”に比べてそれほど”流行”の地位って低くないんですよね。
これはそもそも、価値観が変容していくその流れ自体がファッションの正体だからなのかななんて思っています。パンクのような、良いか悪いかなんてどうでもよくてとにかく既成概念をぶっ壊す行動に美徳を与えて”文化”にまで引き上げた立役者がファッションですもんね。
ファッションのような、価値観は流れて変わっていくもの、ということが前提になっている思想の中であれば、文化と流行の差って、ヘンなきらきら感はうっちゃられて、さっき私が言ったような単に時間的長さの違いだけ、という認識になるんだろうと思います。

 

そっか、じゃ、変化しない価値観の話のときは”文化”を使って、変化する価値観の話のときは”流行”を使えばいいんだ!

・・・でもね、変化しない価値観の総体なんて、残念ながら存在しない、と思います。
もちろんこれは、どれだけの期間変わらずにいられるか、という時間の長さによって相対的に変わりますが、未来永劫変わらない価値観って、やっぱりないだろうな、と思うのです。

冒頭に挙げた「文化を伝えたい」というフレーズ。
こういった表現で文化と言う単語が使われるのって、いわゆる手作り系、クラフトワークの世界についてその良さを広めたり素晴らしさに関して言及している場合に多い、と感じます。

この文節を見ると少し首をかしげることが多いです。
これを書いている人は具体的に何を伝えたいと思っているのだろう。
書き手が情熱を持って取り上げているその地域の陶芸に関してのことを言っているのはわかるけど、その作品群のこと? それとも作陶の方法のこと? 作陶の歴史と変遷?
たぶん、全部なんだろう、と思うのです。
いや別にいいと思うんです。文化とは価値観の総体を表しているので、その陶芸に関わる全てを文化としても。

ただ、これはもう個人の好みなのかもしれませんが、こういう場面で”文化”という言葉を使うのは、ちょっとずるいな、と思います。どうせちゃんと解説したいのなら、技術、歴史的背景、材料、そういったものを詳細に解説してあげればよいのに。
でも、価値を誠実に解説するかわりに、先ほど言った”文化”という言葉のきらきら感に頼って、”文化”という言葉の持つ”不変の大切な価値”といったニュアンスを載せて、必要十分以上に価値を増幅させて説明しているような感じを当方は受けてしまいます。
そして更にいうなら、不変、というニュアンスが誤解を生じさせているような気もします。技術や製造工程や道具というのは少しずつ時を経て変化していることが圧倒的に多いはずなのに、変わらないことを良しとしてしまう価値の押しつけが生じているようにも思ったりします。書き手はしっかり取材調査しておられるので私が言うようなこと、技術体系は少しずつ変遷することを当然知っていて、無条件に不変が美徳だなんて思っていないかもしれないのに、です。

同じことを何度も言いますが、特に工芸、クラフト系、手作り系に関連したテキストで ”文化” という言葉を使うときは、どうもそのプロダクトにまつわる周辺情報の代名詞として使われていることが多いと感じるんです。
で、ストレートに周辺情報と言わずに、文化という言葉で表現することで、

・なにやらオウギョウなすごいこと
・不変の価値

あたりを増幅しているように聞こえてくることが多いように私は感じてしまいます。
そして、これが、私が “ぬるい” と思ってしまう理由なんだろう、と思っています。

 

2.”伝統”という言葉について

次に個人的に気になる単語、それは ”伝統” です。
これも広辞苑で調べてみましょう。

伝承に同じ。また、特にそのうちの精神的核心または脈絡。

伝承は同じく広辞苑によると「つたえきくこと、つたえうけつぐこと」とのこと。
伝え受け継がれる事柄の中で、特に重要と意味づけられた何らかのよりどころ、といったところでしょうか。
確かにそうです。おっしゃる通りです。この定義には個人的に激しく同意します。

ですが、、このような格調高い高次元な意味で伝統という単語が世間一般で使われているとは私はあまり感じません。もっと限定された事柄、具体的には

昔から連綿と続く技術体系を変わらず伝え受け継ぐ様

として使われていることがとても多いように思います。
能、歌舞伎、文楽などに代表されるような伝統芸能に関しては素養も知識も全くないのでそちらの方は分かりませんが、工芸の世界で、本来の意味の “伝統” であり、しかもそれがびっくりするくらい高次なところで極めて長期間伝え受け継がれていると感じたのは、僭越ながら私は樂焼くらいしか知りません。すみません、私がただ不勉強なだけだろうとも思いますが。

私は、この伝統という言葉が使われている時点で、多くの場合「あぁ、もう、変われないんだな・・・」と思ってしまいます。
取材者や観察者、プロダクトを実際に使用した人間が、その作り手の技術体系を評して伝統と評するのはそれほど問題ないと思っています。
ですが、作り手が自分で伝統と言ってしまっているのを見聞きすると、多くの場合、あぁあ、残念だなぁ、と思うのです。

どんな技術体系だって、その体系が “発明” されて生まれた当初は革新に満ちており最先端のものだったはずです。
その後、時代の変遷とともに文化が変容して価値観の総体が変わりプロダクトに求められるニーズが変わる。そして、革新によって生まれた技術もそれに伴い変化したり違う新たな革新的技術に代替されたり、ということが起こります。そうやって、プロダクトはその文化によって変わっていくのだろうと思います。

例えば、或る技術体系が100年の間ほとんど変わらず連綿と伝承されて残ったとしましょう。歴史上そういったことはいくつもあったのだろうと思います。それは本当に素晴らしいことです。
100年伝承するには4~5世代以上にわたり技術を継承された地道な行動があったのでしょう。もちろんそこには大きな敬意を表します。でも、技術体系を伝承された努力が一番の功労ではない、と個人的に思っています。
それよりも、100年の間、価値観の総体がたまたま変わらずプロダクトに求められるニーズが変わらなかったため技術体系を変える必要がなかったから、というのが、技術が100年伝承され続けた最大の要因なのだろう、と思うのです。

そして、その要因は残念ながら、たまたま、です。
中には、千宗易さんのようにほぼ一人で文化のベクトルを向きもスカラー値もガラッと変えて価値観の総体を意識的に変容してしまえるような人がいらっしゃいますが、そんな人はそれこそ何十年か何百年に一人なんじゃないかな、と思います。
多くの場合は、時を経るごとに少しずつ変わっていく風土と情報が影響して、そのインプットを仕入れた複数の人間の解釈に変化が生まれ、価値観の総体が変わっていく。。
そんな感じで文化が変化していくのだろうと思います。残念ながら、ひとりの人間や単独の家系がその変化を止めたり作為的に変容させるというのは相当に難しいのではないかと思っています。

そんな状況で、伝統を守るって、どういうことなんだろう、と思うのです。
単に、変化することをあきらめた、もしくは、ちょっと失礼な言い方かもしれませんが、文化の変化に対応することを怠ったまま何とかしようと頑張っておられるのかな、と思ったりします。

 

あ、ここで誤解のないように一つだけ。
私はなにも過去の技術を否定しているわけでは全く無いです。
それどころか、少なくとも自分の染めの仕事に関して言えば過去の技術の方がずっと高度で品質の高い染め色を出していた、というのがこの業界の通説です。
例えば、平安時代に編纂された延喜式には上代の色彩37色分の材料リストが掲載されています。その染料や助剤の記述や使用分量は、古代の技術の片りんを垣間見える極めて重要で貴重な染色資料としてことあるごとに参照していますし、時代はだいぶ下りますが江戸時代に遺された複数の染色指南書からは目からうろこの情報を何度も得たりしています。
これは結局、先史時代から何千人何万人という名もない染め師が染め作業のトライアンドエラーを行い続けてくれて、そこから生まれた極めて合理的で高度な技術体系がすでに平安時代には存在していて、残念ながらその技術体系はすっかり断絶してしまっているからでして、現代のポッと出の私が十年そこら頑張って独力で得る経験よりも、過去をさかのぼる方がずっと簡単に有益な知見を得られるから、に他なりません。

じゃあ、なぜ昔の天然染料の技術が断絶してしまっているかというと、

・高度で手間のかかる技術によって生み出されたプロダクト(例えば平安時代の染織物)に見合う代金を支払う顧客(例えば平安時代の裕福な貴族)が消えていった
・革新的な技術(例えば反応染料)によって、より安価で高品質(何を持って高品質かというのはさておき)なプロダクト(例えば発色良く色落ちし難いカラフルな綿素材)が生み出されるようになった

というおおきな二つの理由が時代を経ながら複合的に折り重なって、です。
そして、この二つの理由によって技術が断絶した、という事例はなにも染色に限ったことではないと思います。

そんな状況でなぜ私が時代錯誤的な天然染料の染色をしているのか、というのはまた後程どこかでお話しするとして、自分としては染色の技術を学ぶ対象は多くの場合過去からです。それは合理的に高い技術を学べるからです。
ですので、決して私は過去の技術を軽んじているわけでは全くありません。

 

すみません、話を戻します。
文化の変化に伴い技術体系を変えるというのは、改善だけではなく、手を抜いて作業を簡素化してコストを下げて品質の低いものを廉価で提供する、ということだったりすることも多いと思います。
そして、そこに抗う作り手の気持ちも僭越ながら良くわかるつもりです。
ですが、これはもう、どうしようもないことだ、と思います。なにせ、作り上げたプロダクトがその時代の文化に認められるものでないと、作り続けられないのですから。
この”作り続ける”ということが、モノづくりをしている人間にとって、最も重要な行動指標のひとつだと思っています。このことは後程あらためてお話ししようと思っています。

いずれにせよ、この、文化の変容、言い直せば価値観の変化への対応に合理規制が働かないままの状況の際に、”伝統を守りたい” というフレーズがでてきてしまうことが多いのではないか、と思っています。

とても失礼で偉そうな表現になってしまうかもしれませんが、”伝統を守る” というフレーズを目の当たりにした時、私の目には、”伝統”という実質のないくろい張りぼてをがんばって掲げようとしているように映ってしまうことが多いのです。すみません。。

 

・・・すみません、かなり長くなってしまいました。でもまだ続くんですが(笑)。
このあたりで導入編をストップしようと思います。
極めてわがままな私見ではありますが、なぜ自分が文化や伝統を言及しているテキストが気になってしまうのか、と言うことに関して自分なりにまとめることが出来ましたので。

で、なんかこのままだと文句言って終わり、と言う風情のヘイトスピーチ的ブログで終わってしまうので、この後は次号でちゃんと自分が実践しているモノづくり論を述べたいと思います。
簡単に言えば、どうやって草木染めで食っていくか、ということです。

引き続き頑張ります!

 

※このテキストは青木正明の個人的な考えです。
自分の考えだけが正しいなんてこれっぽっちも思っていません。
また、私の知識不足や不勉強からくる偏見を自分では気づかないまま述べてしまっている可能性も大です。
間違いのご指摘、ご意見などどうぞ頂けましたら幸いです。

http://www.tezomeya.com

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