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「山登り」と「美しきもの」との相関性とは?

今年も夏山に登ってきた。
北アルプスの南東側、燕岳に上がってそこから稜線伝いに大天井岳、常念岳、蝶ヶ岳とピークハントしながら更に南下し、最後は徳沢に降りて上高地で終着する3泊4日の縦走ルート。

どの山も2800m前後の標高なので、稜線もほぼ2400mを切ることのない雲上のトレッキングが続く。
穂高連峰をずっと右手に見ながらのきわめて景色のいいルートで、通称「パノラマ銀座」とも言われているメジャーな縦走コースだ。

こんな景色をずっと右手に見ながら歩く。

なので、一度稜線に上がってしまえば、延々何時間も登りつづけなければいけないようなルートではない。ただ、意外とアップダウンはあって、岩場の続く尾根道には時々危なっかしいところも。
今回のルートは初心者や中級者でもなんなく歩けるところばかりだが、それでも、滑落するとたぶん大怪我かな、という箇所も時々。

まだここはくさりと梯子があるので気が楽だけど、延々大きな岩がごろごろしてる場所の下りなんかは、結構神経を使う。
こんなとことか。

これは常念岳からの下り。1時間近くこの道で、20kg超のバッグを背負ってのこのくだりは堪えた。まだまだ技術・経験・体力不足です・・・。

でも、それだけにピークに立った時の景色ってのは、本当に気持ちいい。

これは蝶ヶ岳の手前の小さなピーク、蝶槍。長男が珍しくご満悦なポーズをとってくれた。

飯もね、上で食べるとウマいんですよ。
キャンプとか花見とかバーベキューとかの外で食べるごはんは格別、ってあんまり普段は思わないんだけど、山登りの昼ごはんは別モノ。単にものすごいお腹空いてるから、ってのもあるだろうけど。アルファ米とレトルトカレーごときが大御馳走になります。
子どもたちもバクバク食べる。

そして、楽しみはその日ののぼりが終わった山小屋でのビール。

ご想像のとおりですが、もうこの一杯の為に小屋にたどり着くといっても過言ではありません。
っていうか、今どきの山小屋では生ビールが飲めるんだよね。缶ビールも売ってます。ほんと便利です。山小屋のスタッフさん、ありがとうです。

で、山登るたびにいつも、『あぁ、やっぱりこの景色を見たくてここに来るんだな』と思うわけです。

これは常念岳を下った後の結構きつい登り返しのとき。

これは蝶槍から最後もうすこしで蝶ヶ岳ヒュッテに着く手前の景色。

歩いてる時でも、休憩の時も、そしてもちろん山小屋についてからも、とにかくことあるごとに周りを見渡す。そうすると、いつもこういった景色が目に入る。

山小屋について、すわり心地のいい岩に陣取って、ビール片手に煙草ふかしながら同じ目線の向こうにそびえる穂高の峰々をみてると、もう、たいていのことはどうでもよくなる。

いや、別に仕事は好きです。好きっていうか、自然な行動として染めをさせて頂いていて、それがたまたま仕事になっているので、そこには基本的にはストレスはありません。もちろんお金のことはいろいろ考えないといけないけど、それを含めての作業行動原理として「染め」が存在しているので、お仕事という中に自己矛盾はありません。
だから、山に安息を求めてるとか、リフレッシュしにくるとか、ストレス解消とか、そういうことではないんです。

自然って素晴らしいな、とか、山は偉大だとか、そういう相対論的感情でもたぶんないと思うんです。

そこに圧倒的な存在として、ただある。
山の風景。
そして、それは、下界に居ては絶対に目にすることのできない風景。

それを鑑賞するために、わざわざあんな遠いところまで夜行バスで行って、重い重いバッグを背負って、何時間もつらい思いして歩いて、で、風呂もないのに一泊9000円もする宿に泊まるわけ(決して山小屋が高いと文句を言っているわけではありません)。

この「美しき山々」を見るために行くわけです。

子どもたちは毎回登るまでは常にブーたれてる。
次男などは
「なんで俺ばっかり山に登らなあかんのぉ?友達なんかひっとりも行ってへんのにぃ!」
と、自分が学校のクラスで最も最悪な夏休み旅行を過ごすことになる不運な被害者であることを主張する。

でも、上に上がったとたんに、彼らもテンションが上がる。こちらから見ていてもそれが如実にわかる。今回の写真はほとんどが次男によるものだ。彼はこういった高い山に登りだしてから自分で風景を撮ることに興味を覚えた。
そして、言う。
「やっぱり、カメラで撮った写真より、ナマで見る方がいいわ・・・」
彼の中では、できるだけナマの風景に近い写真を再現したい、という願望が今回の山行で生まれ始めたようだ。

昔、友人のカメラマンM氏が言った言葉、
「本当にいい風景に出合ったら、シャッターなんか切らなくていいんです。目が最も優秀なレンズですから。シャッター切る時間があったら、しっかり自分の目を通して脳みそに映像を焼き付けとくべきですよ」
本当にその通りだと思う。
そもそも僕はカメラが下手くそなので、それこそそんな時間がもったいない。
壱秒でも多くの時間を、この風景を焼き付ける作業に充てるべきだ。そう思う。

ちょうど、12年前に故前田雨城氏の色無地の着尺を見て、その色をカメラに収めることをあきらめた時と全く同じ現象だ。

では、「美しき山々」は、なぜ美しいのか?
これはもちろん、先ほども言ったように、ただそこにある存在が圧倒的だから、という理由にもならない理由があるからだろうが、そこには、重い荷物を背負って、何時間も歩いて、その苦労した上に目にする景色だから、ということが残念ながら少なからず美しさを高めるための要素として働いていると思う。

『残念ながら』と言ったのは、個人的には、そういった付帯要素とは全く関係なく『絶対的な美しきもの』というものが世の中には存在するのではないかと淡い期待を持ってこの仕事を始めたからだ。

なぜ故前田先生の染めた着尺の色はあんなにすごいのか? なぜ樂家の三代目道入の赤樂茶碗はあんなにほわんとしてるのか? なぜレッドツェッペリンの「最終楽章」を聴くと今でも鳥肌が収まらない現象が起こるのか?
そこに理由が認められない自分としては、そこに「絶対的な美」が存在するから、と思っているところがある。理由がわからないから、『絶対』というとても心地の良い言葉に頼ってしまっているのである。

だが、ちょっと考えてみると、状況証拠はいつも「絶対的な美」の存在を否定する。
もし前田先生の着尺が「絶対的な美」を持っているとしたら、あの着尺を見た人はすべからく皆その色にひれ伏さねばならないのだけれどそんなことはないし、僕はピカソの青の時代の現物を観ても、画家を目指そうとは思なかった。

人それぞれ、『美』の感じ方は違う。そして、同じ人間の中でも、その付帯状況によって、『美』の感じ方は違う。
例えば、ドラえもんのどこでもドアで突然燕山荘にいっちゃったら、そこから見る槍ヶ岳の風景を、一昨日汗だくでへとへとの状態でみた時と同じような心持ちではおそらく鑑賞できないだろう。

「なんだよ、そんなの当たり前のことじゃん」
って思われるかもしれません。はい。そうです。当たり前と言えば当たり前。
そんな、こんな今さら言うべきことではないのかもしれません。

でもね、作り手からすると、なんか、「絶対的な美」って、あってほしいような気がするんですよ。
少なくとも自分はそう思ってしまっている。

だから、状況証拠から帰納法的に類推して「絶対的な美」などないんじゃないか、と思うと、なんか、悲しい。

3000m近い別世界に行って、そこで目にする圧倒的な神々しき山々の頂に出会っても、それでさえも『絶対的な美』ではない、ということは、僕が作る染め色なんて、ほんとちんまい『美』だな、と。

・・・って、落ち込むために山に登ってるわけじゃないんだけど。

まぁ、そんなことを頭に時折かすめながら今回も縦走を楽しんできたわけです。

なんか尻切れトンボな話だなぁ。
これ、実はもっと考えないといけないポイントがあるんだけど、もう面倒くさくなってきたのでまたの機会に。

とにかく、山はいい。こんないろんなことも考えさせてくれる。うん。

素晴らしい。

手染メ屋
http://www.tezomeya.com/

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