tezomeya ブログ
ジョシュア・ベル実験に関する一考察 ~その2
・・・・・その1からの続き
僕はジョシュアベルのことは映画音楽でメジャーになった有名なクラシックバイオリニスト、って程度の知識しか知らなかった。コンサートはもちろん、CDでも実際の演奏を聴いたことがない。
彼が使っているストラディバリウスのバイオリンも、すごい名器だってことは耳にしたことあるけど生音を聴いたことがない。
だから、今回の『美しいもの』が、どの程度美しいのかは、“知識”としてしか理解できない。耳で評価ができていない。
Standby Recordのこの文章を書いたライターさんは多分ジョシュアベルのファンなのか、好評価者なのか、その両方なのか、おそらくジョシュアの素晴らしい演奏をちゃんと理解しているのだろう。
そして、『美しいもの』をできるだけ多くの人たちにも享受してもらいたい気持ちで書いたのだろう。
でもそれならストレートにジョシュアベルをブログやfacebookで紹介すればいいんじゃないかな、なんてまずはちょっと意地悪に思ってしまった。
というのは、だいぶ変化球的な手法で紹介してるから。
Standby Recordのライターさんは直球で紹介することはせず、
「朝のラッシュの通勤者はオフィスに遅刻しないようにするのが精いっぱいで、こんな素晴らしい演奏に目も耳もくれない・・。なんと悲しくむなしい人たちなのか・・」
「この実験を教訓に、私たち(でもライターさんが言いたいのは実は君たち?)だけでも、本当の美しいものを逃さないように気を付けようね」
といった文章で、『美しいもの』としてのジョシュアベルの演奏を紹介している。
その変化球の曲がり具合やその三振を取れる効果の是非はおいておきます。よくわからんし。
それより、このライターさんが伝えたい『美しいもの』について考えてみる。
このライターさんの内容をそのまま信ずるならば、『美しいもの』は、どんな時でも素晴らしく評価されるべき力を持っている、ということになる。
本当にそうなのだろうか?
たとえば、今回の実験で言えば、ワシントンポスト紙(以下WP紙)の記事にもある通りジョシュア・ベルのコンサートは通常、一席100ドル以上もかかる立派なホールで行われる。
音響は抜群。聴衆は最大限の集中と敬意を払って演奏者を聴く。
もちろんジョシュアは黒の上等なスーツに身を固め最高の演奏をする。
拍手大喝采。
ここでは、彼のバイオリンが奏でる音は見まごうことなく最上級の『美しいもの』なのだろう。
だけど、地下鉄の駅構内は音響効果など全く考慮されていない。
改札口の喧騒がつねにノイズとなる。
何よりも大切なのは、行きかう人々はこれからハイエンドなクラシック演奏を聴きたいなどと全く思ってない。
バイオリンはストラディバリウスだがそれ以外の付帯環境および付帯物は、コンサートホールでのコンサートに比べて一切と言ってよいほど存在しない。
それでも『美しいもの』は存在する。そう、Standby Recordのライターは言っているように僕には聞こえる。
では、どんどん付帯環境や付帯物を省いていったらどうなるのだろう?
まず、ジョシュアからストラディバリウスを取り上げたら?
そして彼に一本数万円の中国製の入門者用バイオリンを渡してみよう。
もちろんそれでも彼は造作なくシャコンヌを弾き終えるだろうし、僕のようなクラシック専門外の人間であれば、十分な拍手を惜しみなく与えるような音楽が奏でられるだろう。
こんな安いバイオリンでも弾く人が超一流だとこんな素晴らしい音が出るんだなぁ、などと多くの人間が感心するのだろう。まだこれは明らかに『美しいもの』なのだろう。
でも、『美しいもの』の美しい度合は間違いなく下がるに違いない。
聴いてもないのにわかるのかよ! と言われそうだが、そう結論できそうな決定的な証拠がある。
それは、ジョシュア自身が自分で大枚をはたいて(どうも4~5億円くらいしたらしい)借金までして今のバイオリンを手に入れているからだ。
彼自身がそれだけの代償を払っても惜しくない音色を奏でてくれる、と判断しているからだ。彼は自分が持っているストラディバリで弾くときと、ほかのバイオリンで弾く時では、その『美しいもの』度合は天と地のさほどある、と思っているかもしれない。
どうもそれくらい、そこには全く埋められない美しさの差があるようだ。
彼はその差を埋めるために、このストラディバリウスのギブソンというモデルを手に入れたとしか思えない。
まさか、外見がかわいいからだけで、数億円プラス借金してバイオリン買いませんよね。
これは彼の演奏に、その付帯物のバイオリンの優越の差で『美しいもの』にも美しさ度合の差が生まれることになりませんか?
そしてそれを真っ先に認めているのが、『美しいもの』を提供してくれている彼自身だ。
その美しさの差はジョシュアベル本人にしかわからない微細な差なんじゃないのか?という疑問も生まれてくる。
確かに、入門用のバイオリンでも『美しいもの』になる可能性は十分にある。
では、『美しいもの』とそれほど美しくないものの間にはどこかにボーダーラインがあるのだろうか?
だって、少なくとも『美しいもの』にはその度合いの差がありそうだから。
・・・・・・・・次号へ続く!