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ジョシュア・ベル実験に関する一考察 ~その4

ジョシュア・ベル実験に関する一考察 ~その4

・・・・・その3からの続き

ジャンルが変わって色の話で恐縮だが、日本では古代から連綿と受け継がれている素晴らしい色文化がある。

襲(かさね)の色目 である。

これは、古く平安時代の貴族の(おもに女性用の)装束の袿(うちぎ)と言われる3~5枚の着物の色バリエーションの決まりだ。
決まりと言っても、冠位十二階などのように法で決められているわけではなく、その季節によって好ましいとされるものが挙げられている。

まぁ、貴族女房の季節のカラーコーディネート術、といったところだろう。

ちょっと1000年昔に旅をして、平安時代の京の都の貴族の“合コン”をのぞき見してみよう。

或る女性が晩夏の歌会に参加する。この日は晩夏にしては少し冷たい空気。空はすっきり晴れ渡り入道雲などはない。キン、と乾いた透明感のある空気。
彼女は3枚の袿の一番裏にクチナシで染めた黄色を、中にベニバナで染めた薄紅を、そして表にはスオウで染めた濃蘇芳色をあしらう。
この三色は「櫨紅葉(はじもみじ)」という襲の色目だ。秋に着る袿のカラーコーディネイト。
もちろん秋の紅葉をイメージしての色合いだ。

歌会の場で、部屋に座った彼女の服の裾が縁側にたれ、櫨紅葉の襲がはらりと見える。
庭にいる多くの男性貴族が、キュン、となっただろう。そして、同席した女性からも感嘆の声が聞こえたに違いない。

晩夏の歌会。だけどその日はこれから訪れる秋を感じずにはいられない空模様。
そこに、秋の襲を纏った女性が現れた。季節の先取りである。
もうこれはシーズンカラーコーディネイトの真骨頂。彼女とその着物は高く評価されるわけだ。

ただ、この「皆が感嘆をあげる」状態になるには、櫨紅葉という襲の色目が秋を彩るものだ、という知識がないと成り立たない。
そもそも、櫨紅葉で表現されるような赤茶系統の色目が、秋のイメージだ、という周知の事実が頭に入っていないとだめだ。

卑下しているわけでもなんでもないが、熱帯雨林の国から出たことのない住人では、その人がいかに感受性の高いアーティストだったとしても、同じ場にいて櫨紅葉の女房装束をみても、ただ「きれいな着物だなぁ」程度にしか思えないであろう。

いわゆる様式美というものである。
こういったことは、伝統文化や伝統芸能など歴史ある表現体系が、時の流れとともに様式が積み重ねられ構築されていったような分野ではかなり重要な美の形なのであろう、と思う。

そして、この様式美なるものは、伝統的な分野ほど形式ばったものではないジャンルでも、表現物の評価に大きな影響を与えていると思う。

すなわち、
「芸術を鑑賞する」
とは、
「対象となる表現物にかかわる事前知識の集積をもって、その表現物の成り様を自分の知識体系と比して評価をする、知的なゲーム」
ということになるようにも思える。

残念ながら見方によってはとってもスノッブなゲームだ。

元バイオリニストを目指していた郵便局勤めの男性は、評価の高い演奏家を演奏を普段から耳にしているので、どのようなバイオリンの音や演奏がいわゆる『素晴らしい演奏』なのかを「知っていた」。
夕食後にリビングルームでウィスキーを傾けながらお気に入りのクラシックをお気に入りのサウンドシステムで聞きながら、知らず知らずのうちに毎日『素晴らしい演奏』がどのようなものかを「学習」していたのである。
もちろん18歳まで真剣にバイオリンを練習し演奏していた経験も、『素晴らしい演奏』の目利きに相当な影響を及ぼしているに違いない。

そのような『素晴らしい演奏』がたまたま耳に飛び込んでくる。それが通勤途上であっても、何であっても、彼は反応せずにはいられないのだ。それは、「知っている」から。

会計関係の仕事をしている女性も、カフェのギタリスト店員も、おそらく同じような理由で反応したのではないか、と想像できる。

ということは、今回の実験は、官公庁のオフィス街に直結するこの駅構内を通勤する人の中に、ある一定以上の音楽に造詣の深い人がどのくらいいるのだろうか、
もっというと、元ミュージシャンとか、自他ともに認めるクラシックファンとか、クラシックに限らずCDやレコードのコレクターとか、そういう人は官公庁勤めの中でどのくらいいるのだろうか、という、ただの定量実験だった、とも言えなくはない。

ジョシュア・ベルを使ってまでしているのに、意外と薄っぺらい実験だったのかなぁ。。。。

いえいえ、そんなことではなしがおわるわけない。

僕がここまでだらだら長々と書いてるのを読んでくださってて、なんか抜けてる感覚があるなぁ、と思ってる方いらっしゃいませんか?

そう、あれ。

何と言葉で表現していいのかわかんないけど、いわゆる“たましい”と言う言葉でいわれそうなわけのわからん奴だ。

ブラックミュージックで言うところの“soul”であり、
ロックで言うところの“ロック”であり、
フラメンコで言うところの“ドゥエンデ”であり、
弓道で言うところの“無心”であり、
etcetcetcetc・・・・

そう、あれ。

自分の話で恐縮だが、昔、カザルスのバッハの無伴奏チェロ組曲を初めて聞いたとき、ちょっとした雷が落ちた。

この曲は聞いたことがある。さらにその昔、真夏の夜のジャズって映画の一場面で。でも、その時とは全然様相がちがうぞ。なんぢゃこりゃぁ?

ってな感じだった。

真夏の夜のジャズでベーシストが何の気なしに楽屋で弾いてたのも十分かっこよかった。
でも、カザルスを聴いたときは、聴いたことあるけど全然違うぞ、って感じだった。
「知ってる」曲だなんていう“事前知識”の有無なんて全く飛び越えてしまう圧倒的ななにかが流れ込んできたんだと思う。

クラシックで言うと、グレングールドのゴールドベルクでも同じ思いをした。僕は最後の録音の方がさらに好きだけど。

何度も言うが、僕はクラシックはほとんど聞かない。
初めてカザルスを聴くまではクラシックのレコードは1枚も持っていなかったし、CDも誰かがくれたのか拾ったのか、カラヤンの第九しかなかった。

そんなやつでもガツンとくるのだ。
やっぱりあの録音たちには、何かが潜んでいる。間違いなく。

クラシックではなんというのかわからんが、soulでありロックでありドゥエンデなるものが、間違いなくあのなにものかが、カザルスのバッハ無伴奏チェロ組曲にも、グールドのゴールドベルクにも潜んでいる。そうとしか思えない。

・・・・・・・・最終号へ続く

手染メ屋
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