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貝紫を染めるアカニシ漁 ~大分県中津干潟での体験報告~
我が国史上最長だった今年の黄金週間。その後半3日間を利用して、店主が大分県の中津干潟に行ってきました。
目的は『アカニシ』。
そうです。貝紫を染めることのできる世界最大の巻貝、アカニシの漁をしてらっしゃる漁師さんを訪問し、直接お話を伺うためです。
以前から行きたい、行きたい、と思っていたアカニシ漁の見学。中津干潟で生物多様性の保護活動をされているNPO法人水辺に遊ぶ会代表の足利由紀子さん他スタッフのみなさん、大分大学教育学部の都甲由紀子先生、そして別府温泉在住の温泉媒染を染色に取り入れて服作りをされているユキハシトモヒコさんに多大なるご協力を頂き、素晴らしい取材旅行ができました。
今回はそのご報告です。
ー序章 吉野ヶ里遺跡ー
九州にはもう一つどうしても訪れたかった場所があります。それは佐賀県にある「吉野ヶ里遺跡」。この機会を利用して、大分県の中津干潟訪問の前に、先ずは吉野ヶ里に足を運びました。
宅地造成工事の際に大量の甕棺出土をきっかけに1986年から発掘が始まった吉野ヶ里遺跡は、国内でも大変重要な弥生時代期の遺跡で知られています。
紀元前4世紀ころから古墳時代以前あたりまで、長い時代人々がこの地に暮らしており、そのなごりが遺構などと共に時代ごとに出土する貴重な遺跡ですが、ここで染色史上大変な発見があったのをご存知でしょうか?
遺跡から出てきた繊維の断片の中に、『貝紫』によって染められたものがあったことが、前田雨城氏らの研究グループによって1991年に解明されます。貝紫関連の遺物が出土したのは日本で初めてのことでした。
しかも、この貝紫で染められた繊維は、時代の異なる別々の甕棺(弥生中期の甕棺と弥生後期の甕棺)からの出土がそれぞれ確認されており、この地で貝紫染めが継続して行われていたという推測に繋げることができます。
紫と言えば世界各地で高貴な色とされているところが多いことで有名で、我が国でも御多分に漏れず一部の特権階級のみが着用できた色です。
地中海を取り巻くヨーロッパでは紀元前10世紀よりも前から、貝を使って染める貝紫染めが盛んにおこなわれていました。この染には大量の貝と手間と時間がかかることもあり美しい貝紫色は、チリアンパープル、ロイヤルパープルなどと言われ高位の者だけがまとえる色でした。
片や、日本での高貴な紫色は紫草という植物の根っこで染めるというのが通説でした。しかし、この吉野ヶ里遺跡から出土した新たな紫色の「発見」により、我が国の紫色文化が更に面白く謎めいたと言えるでしょう。
・・・とまぁ少々鼻息荒めですが、古代染色的観点から見ても大変興味深いこの吉野ヶ里遺跡、今は「吉野ヶ里歴史公園」として広く一般に公開されています。ゆるキャラもいます。ということで、都甲先生に案内して頂いて、中津干潟に行く前に吉野ヶ里歴史公園見学に伺いました。
入口です。ゆるキャラペアのひみかちゃんとやよい君がおでむかえ。全体に整備されていて整然としており、とてもきれいです。
出土した甕棺のレプリカです。この甕棺はほぼ全て埋葬用に使われたもので、ここ吉野ヶ里遺跡からはなんと400体以上もの人骨が様々な副葬品とともに出土しています。
分かりにくいかもしれませんが、こんな感じで地面がぼこぼこと盛り上がっている下に、甕棺が埋まっています。遺跡敷地内には未発掘の甕棺が千個以上あるとされており、今後更なる新しい事が見つかる可能性も大いにあります。
列をなして埋まっており、甕棺が埋まっている列の間を人が通れるように工夫されているのでは、とのことでした。このぼこぼこは簡単に視認できます。今の私たちと同様もしかしたら弥生人たちもここにお墓参りに来ていたのかもしれませんね。
古代繊維研究家の権威、布目順郎氏によって復元された弥生人の想像衣2体。どちらも上着は絹です。右は経糸が日本茜、緯糸が貝紫で染められたものです。左は経緯とも日本茜で染められたものです。布目氏は服飾家ではなく繊維研究家ですので、出土した繊維断片の色素同定の結果に基づいており、組織などもできるだけ忠実に制作されています。
出土した遺構の上に保護の盛り土を施し、その上に当時を想像復元した建物がそこかしこに有り、弥生時代の風情を醸しています。このような倉庫の他にも物見やぐらなど数多くあり、圧巻です。中に入る事の出来る建物もあり、全部を見学しているととても1日で終わらない、充実の展示です。
出土した生活関連遺物の中には貝もたくさんあります。そしてその中にはアカニシも!
もちろんこんな状態ですので、この貝殻片をみても、染色に使ったかどうかなんて全く分かりませんが、アカニシの貝殻が出土して、そして、貝紫で染めた繊維も出土しているとなると、もう、勝手に想像せずにはいられません。
とても広くてあちらこちら駆け回ってあっという間の4時間でした。これでもまだまわり切れていないところが多く、本当に充実の遺跡資料公園です。
都甲先生に、遺跡発掘に関わっておられる常駐の研究者さんもご紹介頂きました。なんと、タイミングが良くて研究目的であれば、実際に貝紫で染められた繊維断片をこの目で見ることが出来るかもしれないとのこと! 万事整えて再訪することを誓い、吉野ヶ里を後にしました。
ー中津干潟でアカニシ漁ー
翌日は今回の取材出張のメイン、アカニシ漁の見学です。漁師の田中清さんの船に実際に乗せて頂き、刺し網漁を見学してその後は田中さんのお話をご自宅で伺う、と言うスケジュール。初めての漁船、ワクワクがひどすぎて寝付けないのではないかと心配するほどでした。こちらも写真と共に報告です。
早朝5時に船着き場に集合。想像以上に海の仕事は早起きです。朝凪が強くなる前に漁場に出ないと危険だからだそうです。陽はまだ昇っていませんが夜空が白んでます。
乗せて頂く田中清さんの漁船。網漁の漁船はコンパクトです。田中さんは必ずご夫妻で漁に出ます。実は奥様も立派な漁の役割を担う方です。その話は後ほど。既にお二人とも乗り込んで、出港の準備中。
漁船を操る田中清さん。40年以上の大ベテランです。地元の漁師さんの中でも腕はピカイチで、漁師仲間が皆さん教えを乞いにいらっしゃるとのこと。地域の顔でもあり、議員さんや役所の方も、中津の海に関わる事であれば必ず田中さん宅を訪れるそうです。
港を出てから15分ほど。最初の漁場に着きました。やっと朝日がお目見えです。見学用にお友達の漁師さんが出して下さったもう一台の漁船と共に。
漁場を定めて予め仕掛けておいた網を引き上げ、網にかかった海産物を獲るのが「刺し網漁」です。
網を回収しながらアカニシが獲れるシーンを動画におさめました。
都甲先生も動画を撮っておられました。こちらの方が色々掛かっているのが分かりやすいかもです。
かかった獲物を丁寧に網から取り外します。これが結構根気のいる仕事。カニみたいにたくさんの足やハサミで引っかかっているものを外すのはかなりの一苦労。
回収が終わった網。1か所の漁場でだいたい200m前後の網を仕掛けるそうです。回収したらまたすぐに漁場に仕掛け直します。網を回収しながら獲物をとって、更にまた網を仕掛け直して、と言う作業を3か所で行いました。
今日のアカニシ。50個ほど獲れました。数も去ることながら、どれもびっくりするくらい大きいです。他のところで見るアカニシはだいたい子供のこぶしくらいのものが多いのですが、田中さんの獲るアカニシはどれも大人のこぶしより大きなものばかりです。
カニもたくさん獲れました。本来はこちらが田中さんの刺し網漁の主な獲物で、アカニシよりも高値で取引されます。
漁の後の朝ごはんに調理する為のアカニシを選別している田中さんの奥様とそれを見守る田中さん。
この後、アカニシはもちろん、チヌ、スズキ、エイ、そしてカニなど今日の収穫をそのまま奥様がご自宅で料理して振る舞って下さいました。
・・・すみません、画像、このくらいしかありません。
朝ごはんと言いながらもう宴会状態になってしまいました。田中さんはウワバミのように麦焼酎を呑んでおられて、当方もお酒は好きな方なので調子に乗ってガンガン頂くうちにつぶれてしまいました。まだお昼前だったのですが・・。
どの料理ももちろん美味しくて、漁師の朝でしか頂けないようなものばかりでした。早くに酔っぱらってしまい画像が無いです。すみません。
そして、そこで、アカニシだけでなく、漁や、漁師や、中津の話をたくさん伺いました。
田中さんは網漁がご専門です。ひとくちに網漁といっても様々な漁法があり、田中さんが最も得意とするのは「囲い刺し網漁」という手法。魚群を探しながら、獲物になる群を見つけるとそこに手早く網を敷き、その名のごとく一網打尽に獲る漁で、勘と経験と技術のすべてが総動員される大変難しい方法とのこと。
奥様が中津地域きっての“魚見(いおみ)”の技術をお持ちで、奥様が魚群を見つけ、そこに田中さんが巻き網をする、という連係プレーだそうです。
話を伺って、今回の刺し網漁に比べてとても動的で攻撃的な漁だな、と思いました。
田中さんは漁場の研究だけでなく、網の形状や刺し網の放置時間などをとても工夫しておられます。しかも、その工夫は狙う魚介類にあわせて更にバリエーションがあり、獲物と漁場と季節によって独自のオーダーメイドな手法を確立しておられるようです。
そこまで工夫している漁師さんは少ないようで、だからこそ皆さん同業者が田中さんの真似をするとのこと。ただ、豊富な知識と経験に基づいた工夫は、その一面をただ真似しただけでは思うようにいかず、だれも田中さんに追いつけないようです。
そんな田中さんの漁で手に入るアカニシはどれもびっくりするくらい大きい個体ばかり。大きなアカニシがたくさんかかるような工夫をされており、田中さんと私たちを繋いで下さっている「水辺に遊ぶ会」のみなさんのおかげで、tezomeyaはその恩恵にあずかっている、と言う訳です。
足利さんをはじめとした水辺に遊ぶ会のスタッフのみなさん、そして漁師の田中さんご夫妻さま、本当にありがとうございました。素晴らしい染材料取材が出来ました。
今回中津に伺ったのは、当方のアカニシ取材だけが目的ではありません。こんな楽しい体験を独り占めするのは申し訳なくて、中津干潟アカニシ貝紫ツアーの開催を考えておりまして、実は今回の訪問はその下見も兼ねております。2020年になりそうですが、中津干潟に行ってアカニシを獲って(獲るのは田中さんですが)染めて食べるツアーを企画致します。ご興味おありの方はこうご期待です!
ー中津干潟と中津の見どころー
最後に、水辺に遊ぶ会の皆さんが案内して下さった中津干潟をはじめ、中津の見どころを紹介しますね。
中津干潟です。広大な干潟。干潮だとはるか沖合まで歩いていけそうです。ここは多種多様な魚介類が生きており、その数も豊富。これらの生態系を守りながら多くの人にその素晴らしさを伝えておられるのが、「水辺に遊ぶ会」の皆さんです。
干潟を案内して下さっている水辺に遊ぶ会代表の足利由紀子さん。何かを探しておられます。何捜してるんですか?と聞くと、いえいえカブトガニをね、と。。。
って、こんなに小っちゃいカブトガニー!
1齢か2齢か忘れましたが、とにかく赤ちゃんカブトガニです。こんなに小さい時からちゃんとカブトガニのカタチしててびっくりしました。ものすごくかわいいです。
こんな小さな黒いカブトガニが、暗い色の砂の中に隠れてるんですよ。でも、足利さん、これをいとも簡単に見つけるんです。
ほら、ここに這った跡があるでしょ、って教えて下さるのですが、当方には全然分かりませんでした。子供の頃、クワガタの居場所を教えてくれる近所の年長の虫博士お兄さんのことを思い出しました。足利さん、ものすごくかっこいいです。
少し大きくなったカブトガニ。手に乗せると身を守るためか、こんな感じで折れ曲がります。いつまで待っても平べったくなってくれませんでした。
こんなに小さいのに本当に細部までカブトガニでした。色艶といい、形状といい、風合いと言い、H. R. ギーガーの造形を彷彿とさせるものでした。ギーガー、多分カブトガニからデザインソースもらってるんじゃないかなぁ。。
ハマグリの子供。きれいな文様です。このハマグリ、以前はたくさん生息していたそうですが様々な理由が関わって今はとても数が少なくなっているとのこと。これは中津干潟に限らないようで、環境省発行のレッドデータブックでは絶滅危惧Ⅱに指定されています。
イボニシもたくさんいました。これも貝紫染めが出来る貝です。この巻貝は岩場の海岸であればだいたいどこにでもいる貝ですが、なにせ体が小さいのでたくさん集めてもほんの少ししか染められません。失礼ながら、田中さんの獲るような大きなアカニシを染めに使い始めてしまうと、もう、イボニシを使う気にはなれないな、と言うのが正直なところです。
この他にも小さなカニたち、無数の小柄の巻貝たち、見たことのない節足動物たち、そしてそれらを狙う鳥たち・・・。本当にたくさんの生き物がここには居ました。私たち人間が住みつくずっとずっと前から、彼らはここで生きて、卵を産んで、死んで、そしてまた生まれているのでしょう。なんだか、良く分からない得体のしれないふくよかな気分に包まれました。中津干潟、素晴らしいです。美しかったです。
他にも、中津城下めぐりに連れて行って頂いたので少しだけご紹介します。
これは中津城内に展示されていた、奥平家に伝わる戦国時代の陣羽織。ウールのフェルト素材で、濃い緑地に深緋色の大の字柄の大胆でカッコいいデザイン。少なくともフェルト地は洋行ものなので、この深緋色はコチニールかケルメスかラックなどのカイガラムシによる染めと思われます。とても状態の良いものでした。何気なくシレッと展示していますが、これはとても貴重なお宝と感じました。
国立上野博物館所蔵の有名な小早川秀秋の「猩々緋羅紗地違い鎌模様陣羽織」をはじめ、この時代に戦国武将が好んで手に入れていた陣羽織は、おそらくどれも生地自体はおそらく洋物で、その赤色はだいたい虫でしょう。徳川時代になり海外モノのプロダクト輸入が規制される前の戦国時代は、当時の多くの西欧物が我が国に入ってきています。陣羽織は、素材と縫製仕様は西欧技術で、デザインは日本製。すなわち陣羽織は和洋折衷モノのハシリとして貴重なワードローブだと思います。中津城には他にも貴重な陣羽織が3点ありました。すごいです、中津城。
これは織田徳川連合軍と武田軍の有名な長篠の合戦図です。江戸初期に描かれたもので、こちらも大変状態が良く、色彩がしっかり残っていました。合戦図としてだけでなく美術的価値も高そうです。
後に中津の領主となる奥平家はこの戦いで徳川軍の配下として活躍しており、その功労を讃えた軸絵です。ですが、先述の陣羽織は長篠の戦の2年前に武田信玄から拝領したもの。この時代の戦国武将は、自国を守るために主君を臨機応変に替えていたことが良く分かる展示にもなっているな、と感じました。
中津の城下町は黒田孝高(如水、官兵衛)が秀吉による九州征伐の折に領有したことから始まるそうです。その後は細川忠興、小笠原家と続き、江戸中期に奥平家の所轄となり、明治まで続きます。
当方は全く知らなかったのですが、あの解体新書の訳を書いた前野良沢って、中津の人だったのです。当時隋一のオランダ語学者だったらしく、当時の藩主奥平昌鹿から「蘭化」、蘭学の化け物と呼ばれていたほどだそうです。
ご存じ福沢諭吉も中津の出身です。藩主の奥平家が蘭学に明るかったこともあってか、ここ中津はあたらしい考えを持つ志士が多かったようです。
アカニシだけでなく色々な魅力を携えた城下町、中津。
ぜひまた訪れたいと思います。次回はできればツアーで!
水辺に遊ぶ会さん、都甲由紀子先生、ユキハシさん、本当にありがとうございました。
ツアーを企画したら私も参加の検討を是非ともしたいです。
服部さま
コメントありがとうございます!
ホントですか?嬉しいです。
ぜひご参加くださいませ!